シネイド・オコナー、悲しみの淵から息子の死を発表
音楽性の高さと過激な発言で知られるアイルランド出身の歌手、シネイド・オコナーは1月8日、ツイッターを通じ17歳の息子シェーン・オコナーを失ったことを発表しました。
シネイド・オコナーはSNSで次のように報告しました:「私の美しい息子、人生の光だったネヴィム・ネスタ・アリ・シェーン・オコナーが、今日この世での苦しみを終わらせることを決意しました。彼は今、神と共にいます。彼が安らかに眠り、彼と同じ道を辿る人が一人もいませんように。私のベイビー、とても愛しています。どうか安らかに。」
そしてボブ・マーリーの歌詞を引用し、「私の青い目のベイビー、これをあなたにシェイニーに捧げます。あなたは私の人生の光、魂の灯りであり、永遠に私を照らしてくれるでしょう。私たちはいつでも一緒で、どんな境界線も二人を引き離すことはできません」というコメントを息子に捧げました。
声明が出された直後、多くの友人歌手がシネイド・オコナーを支えるコメントを寄せました。ザ・ポーグスの伝説的なフロントマンのシェーン・マクゴーワンは、彼女がいつか深い哀しみから癒えること、そしてシェーンの冥福を祈りました。
シネイド・オコナーの息子シェーンは行方不明になり、その2日後にアイルランドのウィックロー州で遺体が発見されました。シネイド・オコナーは、息子は自殺警戒監視下にあったにも関わらずなぜか病院から出ることが許されたとし、アイルランド医療当局に批判の声をあげています。
亡くなったシェーンの家族には母親のシナイド・オコナー、父親のドーナル・ラニー、3人の異父母兄弟がいます。
シネイド・オコナーの人生における苦難はこれが初めてではありません。オコナーの人生とキャリアにおけるアップダウンを振り返ってみましょう。
ダブリン育ちの彼女は、当時のアイルランド大統領エーモン・デ・ヴァレラの妻、シネイド・デ・ヴァレラにちなんで名前が付けられました。問題児として幼少期を過ごし、軽犯罪を犯したことから宗教施設で一時期を過ごしたほか、母親との関係も波乱に満ちていました。
学校を中退した後『ホットプレス』誌に広告を出し、初めて参加したバンドで注目されるようになりました。しかし、U2と喧嘩し、アイルランド共和軍(IRA)を支持する発言をしたことで批判を浴びました。その後アイルランド共和軍に関する発言は撤回したものの、現在でもアイルランド統一に強い信念をもっているといわれています。
1987年、シネイド・オコナーはボブ・マーリーやボブ・ディランの影響を感じさせるファーストアルバム『ザ・ライオン・アンド・ザ・コブラ』 (The Lion and the Cobra) を発表、高い評価を受けました。
ファーストアルバムのリリース後、オコナーは米国のバラエティ番組『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』に出演したほか、シングル「Troy」がオランダのトップ40で5位を記録しました。
1990年に発売されたセカンドアルバム『蒼い囁き』には、プリンスのカバー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」が収録されています。このカバー曲は世界的な注目と批評家の賞賛を浴び、彼女の代表曲となりました。オコナーが10代の時に交通事故で亡くなった母親への想いが歌に込められているとされます。
シネイド・オコナーは『ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー』のリリース後にプリンスが住む家を訪ねたときの出来事について、年を追うごとに異なるコメントをしています。この話が最初に明るみに出たのは2014年ですが、2021年以降の手記では、プリンスは彼女に対して憤慨したあまり手を出しそうになり、オコナーはそこから逃げ出さねばならなかったとしています。
1990年代はオコナーのキャリアの絶頂期でした。ロジャー・ウォーターズを始めとするアーティストとコラボレーションし、映画『父の祈りを』(In the Name of the Father)のサウンドトラックに参加しました。
しかしシネイド・オコナーはコンサート前にアメリカ国歌が流されたら出演しないと宣言し、フランク・シナトラから批判を浴びました。音楽界の伝説シナトラは「彼女の***を蹴とばす」とまで発言。この騒動の結果、オコナーはグラミー賞候補から外されることになりました。
ブリット・アワードで最優秀インターナショナル・シンガーを受賞したものの、授賞式には欠席。しかしアイルランドのアイルランド・レコード音楽協会が主催する授賞式には姿を現しました。そのほかニール・ジョーダン監督の『ブッチャー・ボーイ』に聖母マリア役で出演しています。
1992年にアメリカの人気番組『サタデーナイト・ライブ』に出演。ボブ・マーリーのカバーを歌いおわると、児童虐待に抗議するためローマ法王ヨハネ・パウロ2世の写真をカメラに向かってびりびりと破り捨てたことは有名なエピソードのひとつです。
リハーサルにない想定外の行為がオンエアされた瞬間、スタジオにいた人もテレビの前にいた人も驚愕しました。たちまち抗議の電話が殺到したものの、オコナーは自分はポップスターではなく反体制歌手だとし、このパフォーマンスを正当化しました。 現在でも『サタデーナイト・ライブ』の再放送ではこの扇動的なシーンはカットされています。
翌週に『サタデーナイト・ライブ』で司会を務めたジョー・ペシは、オコナーのパフォーマンスに対しはっきりと不満を表明。マドンナも不満の声を上げたものの、自著を出版したばかりのマドンナが注目を浴びるためのパフォーマンスに過ぎないとみなす人も多かったようです。
(画像:SNLがYouTubeにアップロードした1992年10月10日の『サタデーナイト・ライブ』からの静止画像)
1990年代から2000年代にかけて、シネイド・オコナーのキャリアは停止と再開を繰り返しました。1996年にはアイルランドの独立運動家マイケル・コリンズの生涯を描いた映画『マイケル・コリンズ』に楽曲を提供、2000年代にはダミアン・デンプシーを始めとするアイルランドの新人とコラボレーションしました。
1990年代、シネイド・オコナーは、カトリック教会ではない教団から司祭に叙階されました。オコナーは司祭名を「マザー・ベルナデット・メアリー」にするとしていたものの、その後一転して3人の教皇たちに、自分をキリスト教から破門してくれるよう訴えました。
2018年にはイスラム教に改宗してシュハダ・サダカットに改名。その後、非ムスリムを攻撃するツイートを投稿して物議を醸しました。彼女が急いでコメントを撤回したのは、今回が初めてではありません。
シネイド・オコナーは何度か引退しては、その引退宣言を撤回しています。最近の例は2021年で、オコナーの新作『No Veterans Die Alone』は2022年のどこかでリリースされる予定です。
シネイド・オコナーが音楽活動を続けるかどうかはだれにもわかりません。オコナーは、監視下にあった息子を外出させたとされる病院に訴訟を起こすと脅しており、実際に訴訟をした場合は当分の間はヘッドラインを賑わすことになるでしょう。
シネイド・オコナーはその美しい歌声で世界を魅了してきましたが、悲しいかな、彼女の波乱万能な人生ではなかなか幸せに近づくことができないようです。