ジム・キャリーが引退から復帰?:人気コメディアンが送った波乱の半生とは
スクリーンに登場するたびに笑いの渦を巻き起こしてきたジム・キャリーだが、2022年4月に休業宣言。映画界での華やかな活躍とは裏腹に、波乱に満ちた人生を送ってきたことをご存じだろうか? 今回はそんな大物コメディアンの素顔に迫ってみよう。
1962年1月17日、オンタリオ州(カナダ)郊外のニューマーケットで、4人兄弟の末っ子として誕生したジム・キャリー。母キャスリーン・オラムは主婦、父パーシー・キャリーは会計士を務める一方、ジャズミュージシャンとしても活躍していた。
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ところが、父の失業によって一家はトレーラーハウスに引越しを余儀なくされてしまう。そんな中、ジムは15歳で学校を辞め、警備員の仕事に就いたという。
『ハミルトン・スペクテイター』紙のインタビューで、ジムは「芸術の道が開かれていなかったら、今頃、ハミルトン(オンタリオ州)にあるドファスコ社の製鉄所で働いていたはずです」とコメント。
厳しい家庭状況に置かれたジムだったが、コメディの才能はその中で生まれた。ハワード・スターンとのインタビューで、ジムは「私の母はよくベッドに横になって薬をたくさん飲んでいました。そんなとき、私は母の部屋に入ってモノマネや滑稽なことをしたものです」と回想している。
さらに「壁を飛び越えたり階段を飛び降りたりして、母親の気分を盛り上げようとしていました」と言うジム。こうしたつらい経験が彼の個性的な演技を生み出したのは間違いないだろう。
コメディアンとしてのキャリアはYuk Yuk'sをはじめとするトロントのコメディ・クラブでスタートした。そして1983年、21歳のときにロサンゼルスに引っ越し、本格的に俳優になる夢を追うことになった。
オプラ・ウィンフリーとのインタビューの中で、ジムは当時、モチベーションを保つために1,000万ドルの模造小切手をポケットに忍ばせていたことを明かした。いわく「目標を目に見える形で持っているのは気分が良かった」とのこと。
ハリウッドにやってきたジムは最初の数年間、コメディ・クラブ「The Comedy Store」で働きながら、『サタデー・ナイト・ライブ』をはじめとするオーディションに挑戦した。しかし、なかなか成功を掴むことはできなかった。
1984年、ようやくNBC放送のドラマ『ダック・ファクトリー』に出演を果たしたジム。このドラマでは若きアニメプロデューサー、サルタン・ターケントン役を演じた。
端役をこなしながらチャンスを窺っていたジムについに回って来た主役の座。1994年の映画『エース・ベンチュラ』でタイトルロールを好演、ついにハリウッドスターの仲間入りを果たした。
その年、ジムは目覚ましい飛躍を遂げた。『エース・ベンチュラ』に加え、『マスク』と『ジム・キャリーはMr.ダマー』という大作を成功させたのだ。
翌年の『バットマン フォーエヴァー』でエニグマ役を演じたほか、『エース・ベンチュラ』の続編となる『ジム・キャリーのエースにおまかせ!』では、トレードマークの花柄シャツに再び身を包み、主役を務めた。
1996年には、人気No.1コメディアンからハリウッドにおける高収入ランキングのトップに躍り出たジム・キャリー。ベン・スティラー監督の『ケーブルガイ』でマシュー・ブリデリックと共演、2,000万ドル以上を手にしたのだ。
ジム・キャリーのキャリアの頂点は1998年にやって来た。『トゥルーマン・ショー』で変幻自在な演技を披露、ゴールデングローブ主演男優賞(ドラマ部門)を獲得したのだ。
1999年の『マン・オン・ザ・ムーン』では実在のコメディアン、アンディ・カウフマンを演じて、再びゴールデングローブ賞に輝いたジム・キャリー。今回はコメディ・ミュージカル部門だった。
21世紀のスタートとともに、ジムはコメディの世界に舞い戻ってきた。2000年に『ふたりの男とひとりの女』に出演したほか、2003年には『ブルース・オールマイティ』を成功に導き、記録的な興行収入を達成した。
しかし、批評家たちによれば『エターナル・サンシャイン』のジョエル役こそ、ジム・キャリーの最高傑作だという。共演者のケイト・ウィンスレットとともに、元恋人を忘れるための手術を受ける男を好演した。
その後の数年間は休みなく撮影に臨んだジム・キャリー。『世にも不幸な出来事』、『ナンバー23』(2007年)、『フィリップ、きみを愛してる!』(2009年)などに出演した。
ビデオゲームを映画化した『ソニック・ザ・ムービー』(2020年)では悪役のドクター・ロボトニック役を好演、続編の『ソニック・ザ・ムービー/ソニックVSナックルズ』にも再登場した。
しかし、輝かしいキャリアの裏で、私生活では数多くの深刻な問題に悩まされていたジム。実際、ボロボロの姿を目の当たりにしたファンたちは、ジムの身を案じていた。
ジムに双極性障害の診断が下されたのは、彼がキャリアの頂点を迎えたころだった。2004年にはニュース番組『60ミニッツ』で、うつ病にずっと悩まされていたことを打ち明けた。
恋多き男、ジム・キャリーは2度結婚歴がある。1度目の相手はメリッサ・ウォーマー(1987-1995)、2度目はローレン・ホリー(1996-1997)だ。また、レネー・ゼルウィガー(1999-2000)やモデルのジェニー・マッカーシー(2005-2010)、メイクアップアーティストのカトリオナ・ホワイトと浮名を流している。
ジム・キャリーにとって人生最悪の瞬間は、カトリオナ・ホワイトと破局した4日後に彼女が自ら命を絶ってしまったときだろう。カトリオナは遺書の中で「もう3日経ったけれど、あなたがいないのがまだ信じられない」と書いている。
カトリオナはジムに宛てた手紙で「私は失恋をしたって立ち直れるはずだった。でも、今回はその気力がない」とも述べている。
翌年、カトリオナ・ホワイトの当時の夫、マーク・バートンがジムを告訴。妻が自殺に用いた薬物はジムが手渡したものだったと主張したのだ。
さらに、カトリオナの母親もジムを告訴。彼女はジムが性感染症(A型肝炎、ヘルペス、クラミジア)に罹っていたのに、娘にそのことを伝えていなかったと訴えたのだ。しかし、裁判所はどちらの訴えも棄却した。
バートンの訴えに対し、ジムは「私が愛した女性や私自身に対するこのような心無い仕打ちは受け入れられるものではありません。カトリオナは私が知り合うずっと前から問題を抱えており、不幸な結末は避けようがありませんでした」と反論した。
悲劇に打ちのめされたジムはうつ病に陥り、人前に出るのを避けるように。また、このスキャンダルでイメージが損なわれたことで、俳優業にもブレーキがかかることになってしまった。
このころ、ジムは「ありがたいことに、人間なんて大した存在ではない」、「みんなちっぽけで、いないも同然だ」などと不穏な発言を繰り返していた。
「重要な問題を好き勝手に扱う団体」にうんざりしたジムは、すべてを捨てて噂や憶測から自由になることを選ぶ。
そんなジム・キャリーに手を差し伸べたのはかつて『エターナル・サンシャイン』で彼を起用したミシェル・ゴンドリー監督だった。彼はジムにドラマ『Kidding』の主役をオファーしたのだ。これは復活への第一歩に見えたが……
2022年、『ソニック・ザ・ムービー/ソニックVSナックルズ』の封切りに合わせ、エンタメ番組『アクセス・ハリウッド』で「スクリーンを離れるつもりです。本気ですよ」と宣言。
インタビューでは現在の落ち着いた暮らしを強調:「今は絵を描いたり、スピリチュアルな生活を楽しんでいます。もう十分にやり遂げたと思います」
ただし、はっきりと引退の決断をしたわけではないようだ。いわく:「皆に観てもらう価値のある素晴らしい台本が届いたとしたら、演じることになるかもしれません。でも、当分は休息するつもりです」
そんな中、『バラエティ』誌はジム・キャリーが『ソニック・ザ・ムービー』の第3弾でスクリーンに戻って来ると今年2月に報じた。トレードマークのヒゲをたなびかせ、マッドサイエンティスト「ドクター・ロボトニック」を怪演するジムの姿をふたたび見ることができる日は近いかもしれない。
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