女優ジェーン・マンスフィールドの悲劇の生涯

ジェーン・マンスフィールドの時代
実際のジェーン
才能豊かな少女
早い時期の開花
17歳で最初の結婚
美人コンテストに出場
ブロンドに染める
3度の結婚
5人の子供
有名な浮気
『女はそれを我慢できない』(1956年)
女優として認められる
ソフィア・ローレンとの邂逅
時代の転換
時代遅れの存在に
ビートルズとナイトクラブで
ハリウッドから忘れ去られる
亡くなる前の数年間
自動車事故で死亡
車の乗客たち
前方のトレーラーにめりこむ
「マンスフィールド・バー」
34歳の死
ハートの墓碑
ジェーン・マンスフィールドの時代

ジェーン・マンスフィールドの人生は、一世を風靡しかけるも道半ばにしてキャリアを閉ざされた女優のそれである。マリリン・モンローと少し似ている。マリリンは1926年生まれ、36歳で亡くなった。ジェーンは1933年生まれ、34歳で亡くなる。ジェーンは「金髪」の美女として、マリリンよりもさらにグラマラスで過激な方向へ突っ走った。

"102-53-89"

「みんな私のスリーサイズ、102-53-89に興味があるだけよ」とジェーンは言ってのける。その豊満な、図々しいまでに魅力的な肉体によって、マンスフィールドは50年代ハリウッドの性的シンボルになった。

実際のジェーン

だが面白いことに、「おつむの足りないグラマラスな金髪美女」というイメージは実際のジェーン・マンスフィールドをことごとく裏切っていた。彼女の髪は真っ黒で、知能指数は163だった。

才能豊かな少女

ジェーン・マンスフィールドの本名はヴェラ・ジェーン・パーマーという。ニュージャージー州とテキサス州で育った。12歳のときにはすでにピアノ、バイオリン、ビオラを弾きこなし、くわえて5つの言語を流暢に話すことができたという。

早い時期の開花

目の覚めるような知能の発達と並行して、ジェーンの体も早くから成熟した。賢い彼女は若いうちから、自分の身体が周囲の人々におよぼすその催眠的な引力に気づいていた。

17歳で最初の結婚

ジェーンは17歳のときにポール・マンスフィールドと結婚し、妊娠する。マンスフィールドは夫の姓で、のちに離婚した後もジェーンはこの姓を使い続けることになる。夫婦は1954年、彼女が20歳のときにロサンゼルスに引っ越した。

 

美人コンテストに出場

ジェーン・マンスフィールドはショービズ界へのデビューを目指してロサンゼルスのあらゆる美人コンテストに出場し、賞を総なめにした。映画デビューも時間の問題だった。

ブロンドに染める

映画界にデビューするにあたり、マンスフィールドは一番手堅いと思われる方法を選んだ。髪をプラチナブロンドに染め、マリリン・モンローの向こうを張るのだ。マリリンは当代きっての人気女優で、二人は後々までずっと比べられることになる。

 

3度の結婚

1956年、23歳のとき、彼女はポール・マンスフィールドと離婚する。彼女はそれから2度の結婚を経験する。まずは俳優のミッキー・ハージティ(1955年度アマチュア部門のミスター・ユニヴァース)、次は映画監督のマット・シンバーである。

 

5人の子供

あわせて3度の結婚で、ジェーン・マンスフィールドは5人の子供をみごもった。そのうち最も有名でかつ唯一の女性は、マリシュカ・ハージティである。マリシュカ・ハージティは女優で、1999年から現在まで放送されている米刑事ドラマ『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』に出演している。

有名な浮気

ジェーンはたびたび浮気をした。なかでもとりわけ名高いのは、ケネディ兄弟(ロバート、ジョン)との浮気である。この不倫により、当時の『ワシントン・ポスト』が論じるところでは、マリリン・モンローとの共通点がまたひとつ増えた。

 

『女はそれを我慢できない』(1956年)

女優として最初の重要な役は、『女はそれを我慢できない』(1956年)でやってくる。ジェーンはその映画で金髪の美人を演じた。もっともジェーンは、その一年前の『理由なき反抗』(1955年)に出演するはずだった。同作の監督、ニコラス・レイと関係があったのだ。しかしこちらはナタリー・ウッドに役を奪われた。

女優として認められる

フォックス社が彼女と契約を結び、1957年には『よろめき休暇』に出演した。共演はケイリー・グラント。同じ年、『気まぐれバス』の演技でゴールデングローブ賞有望若手女優賞を獲得した。

ソフィア・ローレンとの邂逅

同年、ジェーン・マンスフィールドとソフィア・ローレンは歴史的な写真におさまる。パラマウント社が開いた晩餐会で、同社と契約を交わしイタリアから出てきたソフィア・ローレンは、マンスフィールドの深い襟ぐりをまじまじとのぞきこむ。この写真にまつわるエピソードはハリウッドの語り草となった。

時代の転換

だが、ハリウッドも時代が移り、ピンナップ向きの官能的美女という50年代ハリウッド女優のイメージはすでに効力を失いつつあった。時代はオードリー・ヘプバーンのような、小柄ではつらつとしたタイプを求めていた。

時代遅れの存在に

ジェーン・マンスフィールドは魅惑のシンボルという玉座からころげ落ち、前時代の遺物に変わってしまった。まだ30歳そこそこというのに、60年代ハリウッドの空気の中に置かれてみると、すでにとうがたった女優という印象が拭い去りがたかったのだ。

ビートルズとナイトクラブで

ところで、ジェーンは1964年にビートルズと対面を果たしている。それはビートルズにとって初めてのアメリカ旅行で、彼らはジェーン・マンスフィールドとナイトクラブの一夜を共にした。当時の歴史的写真が残っている。

ハリウッドから忘れ去られる

だが概して60年代は、ジェーン・マンスフィールドの衰退期だった。飲酒問題、蝕まれる健康状態、そしてハリウッドは彼女のことなどさっさと忘れてしまった。

亡くなる前の数年間

ジェーンは亡くなる前の数年間をラスベガスのナイトクラブに出演したり、低予算のヨーロッパ映画に出たりして過ごした。輝かしい過去は、それほど昔のことではないのに、あまりにも早く、そして決定的に過ぎ去っていた。

自動車事故で死亡

1967年6月29日、自動車事故で彼女は命を落とす。事故は午前2時30分ごろ、ルイジアナ州のハイウェイで起きた。

 

車の乗客たち

車の前部座席にはジェーン・マンスフィールドとその他大人が2人乗っており、後部座席には彼女の3人の子供が乗っていた。うちひとりはマリシュカ・ハージティだった。

前方のトレーラーにめりこむ

前を走る大型トレーラーがとある事情から減速し、ジェーン・マンスフィールドらの乗る車はその後部に激突してめりこんだ。前部座席の3人は死んだが、後部座席の子供たちは軽傷で済んだ。

「マンスフィールド・バー」

この事故により、交通ルールが見直され、大型トレーラーの下部にバーを取り付けることが義務付けられるようになった。このバーは別名「マンスフィールド・バー」として知られている。

34歳の死

このようにして、ハリウッドを一時わがものとした女優は、大型トレーラーに取り付けられる金属のバーにその名を留めるようになった。ハリウッドをめぐる数奇なエピソードのひとつである。

 

ハートの墓碑

ジェーン・マンスフィールドの遺体は出生地のペンシルベニア州の墓地に眠っている。その墓碑はハート型にかたどられている。みじかくも衝撃的な彼女の人生は、その死から50年以上経ったいまも、人々の胸をあつくたぎらせる。

 

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