サッカー選手から歌手デビューまで:エリック・カントナのキャリアを振り返る

いつも予想を超えてくるカントナ
歌手デビュー
スポーツに似た体験?
多彩なキャリア
地中海的なルーツ
AJオセールでデビュー
着々とキャリアを重ねる
オリンピック・マルセイユに移籍
アンリ・ミシェルを公然と侮辱
代表に復帰
パパンとのタッグ
最初の引退宣言
イギリスでの再チャレンジ
ファーガソン旗下のマンチェスター・ユナイテッドへ
「キング」へ
圧巻の個人成績
カントナ・スタイル
不遇な代表成績
短気は損気
カントナ事件
政治問題に発展?
早すぎる引退
ビーチサッカー大使に就任し、優勝へ
俳優に転身
「人生を象徴する演技」
デシャンとベンゼマの確執にコメント
カタールワールドカップをボイコット
フランスサッカー界にまたしても苦言
挑戦を止めないカントナ
いつも予想を超えてくるカントナ

いつもわれわれの予想の上を行くエリック・カントナ。サッカー選手として現役を引退してからもう25年になるが、引退後もビーチサッカーに進出したり、俳優業やアートにチャレンジするなどつねに驚きをもたらしてきた。そんな彼が、先月またしても予想外の発表をしたようだ。

歌手デビュー

かつては芝生の上で大活躍を見せたカントナだが、今度はなんと歌手デビューするらしい。6月2日に2曲同時リリースでデビューし、10月からツアーにも出る予定とのこと。ツアーの幕開けはカントナ伝説誕生の地、マンチェスターだ。

スポーツに似た体験?

カントナは『ル・パリジャン』紙でこう語っている:「昔から考えていたんです。ステージに立って観客の前で歌うというのはとても刺激的な体験だろうと。スポーツでアドレナリンが出ている時の感覚にも近いかもしれません」

多彩なキャリア

世界的サッカー選手にしてフランスにおけるビーチサッカーの開拓者。役者でもあり、こんどは歌手デビュー……マルチタレントというべきか浮気性というべきか、サッカー選手として始まったカントナのキャリアはあまりにも多彩だ。スポーツだけでなく、エンタメ界にも進出するカントナのキャリアを振り返ってみよう。

地中海的なルーツ

エリック・カントナは1966年、マルセイユ生まれ。多文化の出会う地中海都市としてのマルセイユを体現したかのようにカントナ自身も多様なルーツを持ち、カタルーニャやサルディーニャ、イタリア系の出自を持っている。サッカーには幼いころから親しみ、アタッカーとしての才能も早くから傑出していた。ちなみに弟のジョエルもサッカー選手になり、のちに役者デビューもしている。

AJオセールでデビュー

カントナは15歳の時にブルゴーニュのクラブ、AJオセールに加入。1961年以来2000年までほとんど切れ目なくオセールを率いたギー・ルー監督のもとでデビューした。1984-85年シーズンの終わりにはプロ初ゴールも決めている。

着々とキャリアを重ねる

翌シーズンにはFCマルティーグにレンタルされたが1986年にはAJオセールに復帰、チームの要となっていった。カントナのおかげでチームの成績も向上し、1987年には初めてフランス代表に選ばれた。

オリンピック・マルセイユに移籍

そして1988年には地元マルセイユの名門、オリンピック・マルセイユのオファーを受け移籍。2200万フラン(当時のレートで約5億5000万円)という移籍金は当時としては記録的な金額だった。だが、プレイ態度に問題があったため試合から外され、やがてFCジロンダン・ボルドー、次いでモンペリエHSCにレンタルされることになった。

アンリ・ミシェルを公然と侮辱

後に語り草となるエキセントリックな行動が顔を見せ始めたのもこの頃だ。チェコスロバキア戦にフランス代表として選ばれなかったせいか、カントナは選考委員のアンリ・ミシェルに暴言を吐き、彼のもとではプレイしないと宣言したのだ。この言動は問題視され、一年間の国際試合への出場禁止となった。

代表に復帰

やがてフランス代表の選考委員が代わり、カントナも再び選出された。その新たな選考委員こそ、伝説のミシェル・プラティニだ。カントナは8試合で8ゴール決めていたので、再選出も納得の成績だった。1990年にはオリンピック・マルセイユに復帰し良いパフォーマンスを見せたが、リーグ戦でスタッド・ブレスト29との試合中に重い怪我を負ってしまう。

パパンとのタッグ

代表でもクラブでも、カントナは1991年にバロンドールを獲得したジャン=ピエール・パパンとタッグを組んで活躍した。だが、カントナが怪我から復帰すると、マルセイユの監督がフランツ・ベッケンバウアーからベルギー人のレイモン・ゲタルスに交代していた。ゲタルスはワントップでプレイすることを好んだため、カントナはクラブでのポジションを失ってしまった。

最初の引退宣言

そういった事情を受け、カントナはマルセイユよりはやや格下のニーム・オリンピックに移籍。だがその移籍先でまたしても怪我を負ってしまい、チームも成績が低迷。ようやく怪我から復帰したカントナだったが、試合中に審判に向かってボールを蹴り、後には懲罰委員会のメンバーを罵倒。2ヶ月の出場停止処分を受けることになったが、カントナは契約を解除し現役引退を発表した。

イギリスでの再チャレンジ

だが、ファンやミシェル・プラティニからの後押しもありこの引退宣言はすぐに撤回されることになる。1992年、カントナは海を越えてイギリスにわたり、まずはシェフィールドFCのトライアルを受ける。だが最終的にリーズ・ユナイテッドFCと契約し、シーズン終盤からの出場ではあったもののイギリスリーグでの優勝を経験する。カントナの再チャレンジのはじまりであり、イギリスの熱狂的なカントナファン「カントマニア」誕生のきっかけでもあった。

ファーガソン旗下のマンチェスター・ユナイテッドへ

カントナのプレミアリーグでの活躍の場は名門中の名門、マンチェスター・ユナイテッドFC(当時の監督はアレックス・ファーガソン)に移ることになる。優勝したリーズだったが1992年の欧州カップの成績はぱっとせず、年末にカントナはマンチェスター・ユナイテッドに移籍。輝かしい成績を収めてイギリスリーグで2年連続、それも違うチームでの優勝を手にした。

「キング」へ

マンUではその後もめざましい活躍を見せ、「フランス野郎」はいつの間にか海の向こうからやってきた「キング」になっていた。厳しいことで有名なアレックス・ファーガソン監督にすら気に入られ、1990年代にイギリスリーグを支配したマンUのオフェンスを率いた。彼の活躍もあってマンUは5年間で4度の優勝を果たすことになる。

圧巻の個人成績

1993年にはバロンドール投票でロベルト・バッジョとデニス・ベルカンプに次ぐ三位を獲得。プレミアリーグでは1994年と1996年の二回年間最優秀選手に選ばれたほか、ベストパッサーにも二度選ばれている。2001年にはマンチェスター・ユナイテッドのファン投票で20世紀最高の選手にも選ばれている。チームの格を考えれば、その名誉の大きさも極めつけと言うべきだろう。

カントナ・スタイル

カントナといえばなによりも一風変わったスタイルが印象的だ。高い身長に剃り上げられた頭、そしてユニフォームの襟は立てる。だが、彼を特徴づけるのは外見だけではない。爆発力のあるプレーや、敵のディフェンスを翻弄する華麗なフェイントに瞬発力、そして決定力とアシスト力の両立など、プレー面でも際立っている。

不遇な代表成績

だが、代表選手としての経歴はクラブほどうまくいかなかった。カントナは1993年にキャプテンを務めたが、アメリカワールドカップ(1994年)への出場権を惜しくも逃してしまう。カントナ自身の振る舞いや新世代の台頭もあって、キャプテン時代はわずか二年で終わってしまった。

短気は損気

最高レベルの契約金を受け取る立場になってもなお、カントナはフィールド上で問題行動を続け、何度も出場停止処分を受けていた。なかでも最も重い処分を受けたのは1995年1月で、カントナに対して挑発的な態度を取ったクリスタル・パレスFCのサポーターを蹴飛ばしたときだった。

カントナ事件

この出来事は「カントナ事件」と名付けられ、ただちにイギリスのサッカーファンを二分する大論争を巻き起こした。カントナは一年間の実刑(後に社会奉仕活動に減刑)判決を受け、イギリスサッカー協会からは9か月の出場停止処分を受けた。これ以降カントナは二度とフランス代表に呼ばれることはなかった。

政治問題に発展?

噂ではカントナの減刑のために古巣のギー・ルー監督が動き、フランスのミッテラン大統領(当時)を介してイギリスのエリザベス二世に働きかけたとも言われている。真相はともかく、カントナは英仏両国の人の心を動かす強烈なキャラクターではある。

早すぎる引退

1995年10月にカントナはようやくゲームに復帰。ふたたび優れたパフォーマンスを見せ、現役最後の優勝を飾った。翌シーズンもその才能に陰りは見られなかったが、1996-97シーズンを最後に今度こそ引退を発表。まだわずか31歳だった。

ビーチサッカー大使に就任し、優勝へ

引退してからすぐ、カントナは弟のジョエルとともにフランスのビーチサッカー大使に就任。プレイヤー兼監督としてフランスチームを率い、2005年にはビーチサッカーの世界大会で優勝して見せた。

俳優に転身

カントナの関心はスポーツにとどまらなかった。はやくもサッカー選手としての現役時代から映画デビューを果たしていたのだ。1995年にフランスの映画『しあわせはどこに』に出演、ミシェル・セローなどの俳優と共演した。そしてこれを皮切りに以降多くの映画に出演していくことになる。

「人生を象徴する演技」

2009年にはケン・ローチ監督と共同で『エリックを探して』を製作、カントナは本人役で出演もした。役者としての演技や、「俺は人間じゃない、エリック・カントナだ」というセリフは大きな話題となった。「ル・ポワン」誌に言わせれば、まさに「人生を象徴する演技」というわけだ。

デシャンとベンゼマの確執にコメント

2016年、フランス代表のディディエ・デシャン監督がカリム・ベンゼマとハテム・ベン・アルファをEURO 2016の代表チームに選出しなかったことを受けて、『ガーディアン』紙上のインタビューで監督らの側に人種差別的な態度があるのではとほのめかしてまたしても物議をかもすこととなった。ただこの発言は、選手時代のデシャンがキャプテンを務めた1998年のワールドカップやEURO 2000での優勝に関わることができなかったことへの個人的な恨みを表明したものとも受け取れなくもないかもしれない。

カタールワールドカップをボイコット

この発言はデシャンから名誉毀損で訴えられたが、裁判所からは罪に問われなかった。そして2022年、カントナは声明を発表してカタールでのワールドカップをボイコットすると宣言。このイベントは「環境的に大きな間違い」であり「人道的惨禍」であると断罪した。

フランスサッカー界にまたしても苦言

歌手デビューについて語った『ル・パリジャン』誌でのインタビューでカントナはフランスのサッカーには「歴史がない」と発言してまたしても物議をかもすこととなった。また、同じインタビューでカントナはヨーロッパの他のリーグと異なり、フランスには二つの名門クラブを抱えた都市がないとも発言。またしても炎上騒ぎとなった。

挑戦を止めないカントナ

相変わらずの炎上騒ぎは置いておくとしても、5月24日に57歳になったばかりのカントナはまだまだその活力に衰えはない様子。いまはツアーの準備で大忙しだろうが、サッカー選手からミュージシャンへの転身を果たすようなカントナのこと、これからも新たな活躍の場を模索し、話題を提供し続けてくれることだろう。

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