ハワード・ヒューズ:数多の名女優と浮名を流した伝説のプロデューサーの女性遍歴

ハリウッド一の色男?
エラ・ライス
ビリー・ダヴ
ジーン・ハーロウ
アイダ・ルピノ
キャサリン・ヘプバーン
ジンジャー・ロジャース
ベティ・デイヴィス
ジェーン・ラッセル
フェイス・ドマーグ
エヴァ・ガードナー
テリー・ムーア
ジーナ・ロロブリジーダ
リンダ・ダーネル
ジーン・ピーターズ
1976年にひとりわびしく亡くなる
ハリウッド一の色男?

20世紀を代表するアメリカの億万長者、ハワード・ヒューズ。当時最大の資産家であったうえ、果敢な映画プロデューサーや航空産業界のパイオニアでもあり、潔癖症で人の集まるところに出られないという一面もあった。さらに、生涯を通じて数多くの女性と浮名を流したこともよく知られている。相手の女性はその多くが初期ハリウッドで活躍した女優たちだ。

エラ・ライス

ヒューズは18歳の時に父親を失い、工具事業などを通じて築いた莫大な富の75%を相続した。だが18歳という年齢はあまりに若く、事業家としては軽んじられがちだった。そこで、貫禄をつけるために、南部社交界の華として名を馳せていたエラ・ライスと結婚(1925年)。この結婚は出世のための手段でしかなくヒューズは浮気を繰り返したが、後に離婚した際(1929年)の条件はヒューズに有利なものとなった。

ビリー・ダヴ

1920年代後半、ヒューズは映画製作者としてハリウッドに参入しようとしており、女優との関係もその頃に始まった。最初に彼の目にとまったのはサイレント映画の名女優ビリー・ダヴで、いわく一目惚れだったとか。2人の関係はかなり深いものとなったらしく、ヒューズはダヴが離婚してくれるなら夫が要求するお金はすべて払うと申し出たとか。

ジーン・ハーロウ

その後ヒューズはプロデューサーとして実績を積み、1930年代には業界人として確固たる地位を築いていた。女優のジーン・ハーロウと出会い、デビュー作『地獄の天使』(1930)を製作したのもそのころだった。この映画がきっかけでハーロウはブレーク、元祖ブロンド美女スターとなった。ふたりは火遊びもしたようだが、どちらかといえば関係はビジネスライクなもので、ハーロウが26歳で早すぎる死を遂げるまでの間、ヒューズは多くの出演作をプロデュースした。

アイダ・ルピノ

1930年代中ごろにはヒューズは当時まだ10代の若手女優だったアイダ・ルピノと付き合っていた。ふたりのデートはしばしばルピノの母親同伴で行われたとか。ヒューズとの関係も一段落した1940年代、ルピノは役者から監督業に転身、当時唯一の女流監督として活躍するようになった。ルピノ監督作は果敢にタブーに挑むことも多かった。ルピノ自身のプロダクション会社の設立には元カレのヒューズも一枚噛んでいたようだ。

キャサリン・ヘプバーン

1938年、パパラッチがこぞって狙ったのはキャサリン・ヘプバーンとヒューズというビッグカップルだった。パンツスタイルがトレードマークだったヘプバーンは流行の変化のせいで当時人気が低迷中だった。ヒューズとの関係はけっきょく短命に終わったが、ヒューズはそれでもヘプバーンを『フィラデルフィア物語』(1940)に起用、再ブレイクのきっかけを作った。

ジンジャー・ロジャース

ヒューズの次のお相手はキャサリン・ヘプバーンのライバル、ジンジャー・ロジャースだった。当時ヘプバーンはまだ人気低迷中な一方、ロジャースはまさに上り調子。ヘプバーンを『フィラデルフィア物語』に起用すると決定したその日にロジャースにプロポーズしたという。だが、これはすべてヘプバーンとよりを戻すための策略だったという専門家もいる。ロジャースがヒューズにぞっこんだったころも、当のヒューズはオリヴィア・デ・ハヴィランドなどのほかの若手に手を出したりしていたらしい。分かれる直前、ロジャースはヒューズが誰かに命じて自分を尾行や盗聴させているのではないかと疑っていた。

ベティ・デイヴィス

さらにその後、ヒューズはまたしてもヘプバーンのライバル格の若手女優ベティ・デイヴィスと関係を持ったが、けっきょくはデイヴィスから恨まれる形で終わった。映画評論家カリーナ・ロングワースの本によると、彼の名字HughesをHugeとかけて「名前の割には『小さい』男だった」という名台詞も飛び出たとか。こうして一連の同年代のスターとの火遊びで火傷を負ったヒューズはもっと御しやすい年齢の女性に狙いを定めるようになる。

ジェーン・ラッセル

1940年、ヒューズは偶然目にした19歳の新人女優に着目、公私にわたる関係が始まった。こうして選ばれたジェーン・ラッセルは写真映えのする美女で、女性の胸への執着が有名なヒューズのお気に入りに。映画『ならず者』(1943年)では特注のブラジャーまで作らせたが、ラッセルに拒否されたとか。彼女の胸についてヒューズが書いた4ページに渡るメモも残されている。

フェイス・ドマーグ

ワーナー・ブラザーズと契約した16歳の新人女優フェイス・ドマーグと出会った時、ヒューズは35歳だった。それから猛アタックを始め、ついに口説き落とすことに成功。ヒューズはプロポーズもしてドマーグもそれを受け入れたが、これはヒューズの常套手段だった。ふたりはお互いのことを「リトル・ベイビー」「ファーザー・ラヴァー」と呼び合っていたとか。ドマーグがプロポーズを受け入れて以降、ヒューズは彼女と契約、公私にわたって徹底的に管理した。けっきょくヒューズはドマーグと結婚もせず、大スターに押し上げることもなかったが、彼女をマンションの一室に押し込めておいて自分は他の女性と関係を持ち続けた。

エヴァ・ガードナー

40年代初頭、かの名女優エヴァ・ガードナーもヒューズに捕まっていた。当時ガードナーは20代で、ヒューズは20歳以上年上だった。ふたりの関係には虐待も伴っており、ガードナーが元夫のミッキー・ルーニーと会ったと言っただけで殴られたという。だがガードナーも負けずにやり返し、「インテリアの銅製ベル」で殴り返したところ、ヒューズの額がぱっくりと割れ、しかも歯が二本抜けたとか。先述のロングワースが伝えている。

テリー・ムーア

43歳のヒューズがテリー・ムーアを見出したのは彼女が19歳のときだった。同じくロングワースによると、結婚するまで肉体関係は結ばないとムーアが宣言したため、ヒューズはボートの上で結婚式を行ったという。ところがこれは公海上で行われたため、法律的な有効性は疑わしいものだった。ヒューズの死後、ムーアはこの結婚の有効性を主張、長い法廷闘争が繰り広げられることになった。

ジーナ・ロロブリジーダ

1950年、ヒューズは「世界一の美女」ことイタリアのジーナ・ロロブリジーダに一目惚れ、ロサンゼルスまでの片道切符を贈った。そしていざロロブリジーダがアメリカに着いてみると、ヒューズは彼女がホテルの部屋から出ることを禁じ、夫と離婚するよう説得してきたという。彼女がこれを拒否すると、ヒューズは彼女をパーティに連れ出し、酔わせてから契約書にサインするよう迫ってきた。泥酔状態のロロブリジーダには知るよしもなかったが、そこにはアメリカでヒューズ以外と仕事することを禁ずる条項が入れられていた。けっきょく、ロロブリジーダはヒューズとの契約を拒否した。

リンダ・ダーネル

リンダ・ダーネル(またしてもグラマー女優)は19歳の時に42歳のカメラマン、ペヴァレル・マーレイと駆け落ちしていた。後年彼女を苦しませることになる飲酒癖は、この時夫の影響で始まったようだ。その駆け落ちから3年後、ダーネルはヒューズに出会い今度はこちらに一目惚れ。マーレイは妻と引き換えにヒューズからお金を引き出そうと画策したが、うまく行かなかったらしい。

ジーン・ピーターズ

ジーン・ピーターズもまたグラマーな女優だが、地に足の付いた女性を積極的に演じ、肉体的な魅力以上の存在であろうと努めたことで有名だ。彼女自身離婚を経験した後、1957年にヒューズと結婚。結婚中は役者業など公の舞台から姿を消し、一日中ヒューズが雇ったボディガードに守られていた。1971年に離婚が成立、ピーターズはヒューズのもつ莫大な資産への権利を放棄した。その後も「元ハワード・ヒューズ夫人」として扱われるのを嫌い、結婚時代のことについてはあまり多くを語っていない。

1976年にひとりわびしく亡くなる

このように数多くの女性と浮名を流したヒューズだが、その晩年はわびしいものだった。薬物中毒に陥りホテルの部屋を離れられず、ただうとうとしたりテレビを眺めたりするだけの生活だった。そのテレビにかつて付き合っていた女性が出てきたときだけ生気を取り戻し、ヘルパーに声をかけていたという。ロングワースはこう書いている:「ヒューズはそのまま再びぼんやりとした顔に戻り、かつての日々の思い出にふける。まだまだ自分の力が底なしで、数多の女性を惹きつけ、感情をもてあそぶばかりか、一挙手一投足からアイデンティティに至るまで、すべてをコントロールできた頃のことを思い出しているのだ」

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